アルフレッド・リードの生涯

おしらせ(2023年6月)

 申し訳ないことに、以下の内容は10年以上前の古いものです。新刊『アルフレッド・リードの世界 改訂版』(スタイルノート刊)で完結編に相当する内容を公開してありますので、ぜひそちらをご参照ください。

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1. 少年時代(1921年〜1936年夏)

 アルフレッド・リードは1921年1月25日、ニューヨーク市のマンハッタン東33丁目234番地に生まれた。生誕時の名前はアルフレッド・フリードマン(Alfred Friedman)だった。

 父はオーストリア人のカール・フリーデマン・フォン・マルク(Carl Friedemann von Mark*, 1885-1956)。5人きょうだいの真ん中で、1910年にウィーンからニューヨークに移住し、レストランの皿洗いからウェーターを経て、一時はレストランのオーナーにまでなったが、事業に失敗し再びウェーターになった。ただ、独学で身につけたテノールの歌声を買われ、一流レストランでアンサンブルを組み、「歌うウェーター」と呼ばれて珍しがられた。

 同じくオーストリア人の母エリザベス・ストラッサー(Elizabeth Strasser,  1889-1937)は、カールよりも早く、1899年にウィーンからニューヨークに移住していた。カールが店長だったレストランで経理を担当していたことから、二人は第一次世界大戦中に結婚した。母はこの時再婚でイタリア人の前夫との間に男児が1人いたが、前夫は離婚時に子どもをイタリアに連れ帰り、その後の音信は完全に途絶えた(リードに異父の「兄」に一度も会ったことがない)。

 夫妻は結婚に伴い、ドイツ色の濃い苗字(フリーデマン・フォン・マルク)をフリードマン(Friedman)に変更した。そのカール&エリザベス・フリードマン夫妻に第1子が生まれ、アルフレッドと名づけられた。アングロ=サクソン系のアルフレッドという名前には、一般に「知恵」「懸命」の意味が込められている。

※ごく最新の研究(Herbert Marinkovitz, 2014)により、この綴りは不正確で、リード自身の思い違いの可能性が指摘されています。確認の上、日をあらためて加筆します。

 母親はしつけに厳しい家庭に生まれ、12人きょうだいの最年長だったため常に弟や妹のしつけ役だった。そうした役割がしみこんでいた上に、離婚によって愛児と引き裂かれたつらい記憶も手伝い、アルフレッドを溺愛した。一家は家計が苦しく第2子をもうけなかったため、アルフレッドは一人っ子で、常に母親から干渉されて育つことになった。

 ほどなくアパートの西隣が市立第116メアリー・リンドレー学校になり、1925年、4歳のアルフレッドはそこに入学した(日本の幼稚園〜小学校低学年相当)。母親はアルフレッドをドイツ語と英語の両方で育て、アルフレッドは母親の願い通りどちらも話せるバイリンガルになった。だが、幼い頃は2つの言語の発音や文法を混ぜて使うことがあり、そのたびに友だちにからかわれ、つらい思いもした。

 父親はおおらかな性格で、アルフレッドの良き理解者だった。貧しい家でラジオはまだなかったが、父は家で歌を歌ったり、手回しの蓄音機でクラシックのレコードを毎日のように聴いていた。4〜6歳の頃のアルフレッドはいつも何かを口ずさんでいたという。それは見たり聞いたりした楽器の音まねだった。

 

Google Map: アルフレッド・リードの生家 234 East 33rd Street, NY.
当時は玄関を出れば真西にエンパイア・ステート・ビルディングが見えたが、現在は大部分がビルに隠れている。西隣りが市立第116メアリー・リンドレー学校。いずれもストリートビューで確認できる。

 その頃のアルフレッドがひどくやせて病気がちだった。その原因が空気が汚れ遊ぶ場所もないビル街に住んでいることと関係あるかもしれないという医者の助言で、アルフレッドが7歳だった1928年、一家はニューヨーク市北部にあるブロンクスのモヒガン通り2078番地に転居した。学校はモヒガン通り2024番地の市立第67モヒガン学校に通い(小学校中学年〜高学年相当)、アルフレッドはそこを卒業した。

 

Google Map: モヒガン通りの家 2078 Mohegan, Bronx, NY.(右上)
左下は市立第67モヒガン学校。

 1931年、アルフレッド10歳の時、一家は少し南のボストン通り1674番地にあるアパートに引っ越した。当時開校したばかりの市立第98ハーマン・リダー中学校に息子を入れたいという母親の強い希望に、父親が折れた格好だった。

 学業成績は優秀で、進級するにつれて周囲は年上の仲間ばかりになっていった。読書が好きで、雑誌の写真を切り抜いて自分だけの写真集を作ったりするような生徒だった。母親に守られて育ったため人間関係に不器用なところがあり、いじめの標的や使いっ走りになったりもしたが、そんな中で強く生きるすべを学んだ。

 ある時、この学校に楽器メーカーのコーン社の社員が楽器の実演に訪れた、その演奏に魅了され、家に帰るなり両親に「クラリネットがほしい!」と頼んだ。父親はアルフレッドをニューヨーク音楽教室に連れていった。そこで「これがほしいんだね?」とクラリネットを指しても、アルフレッドは「ちがう、これじゃない!」と言うばかり。ほしかったのはクラリネットではなく、コルネットと分かった。アルフレッドは音楽教室に入学し、1回の50セントの受講料で、教室所有のコルネットを借りて練習した。

 教室に3回ほど通った後、父が見つけてきたメトロポリタン歌劇場の指揮者でもあるエイブラハム・ヌスバウム(Abraham Nussbaum)のレッスンを受けることになった。ヌスバウムはアルフレッドの歯を守るために一切のスポーツを禁じ、母親は喜んだ。ヌスバウムの指示で父親はホルトン社製の銀メッキのトランペットを40ドルで息子に買った。個人レッスンはアルフレッドが13歳まで続いた。

 

Google Map:ボストン通りの家 1674 Boston Road, Bronx, NY.(右)
左は第98ハーマン・リダー中学校。

 1934年9月、13歳のアルフレッドはジェイムズ・モンロー高等学校に入学した。この時も一家は高校に近いロングフェロー通りのアパートに引っ越した。以前より通学距離は伸びたが、母親は息子がブロンクス川を越えて6ブロック先まで歩くことをどうにか許した。この頃、父親が息子のためにピアノを購入した。アルフレッドは中古で10ドルのピアノを使って曲を書き始めた。独学ながら、楽譜を鍵盤で音にするくらいのことはできていた。
 その頃、アルフレッドは週末にニューヨーク市やその近郊でバンド演奏してギャラをもらうほどトランペットの腕を上げていた。母親は友人関係を心配して反対したが、母親の弟妹がアルフレッドの味方について説得してくれた。

 アルフレッドたちはミュージシャン派遣会社に所属していた。ある時、この会社が「フリードマン」という苗字が少々長い上にドイツ色やユダヤ色が濃いので、「リード」にすれば親しみやすいと提案した。こうしてアルフレッドは音楽関係の仕事で「アルフレッド・リード」という名前を使うようになった。名前は公私で使い分け、空軍やジュリアード音楽院、ベイラー大学には本名で在籍していた。また、ハンセン楽譜出版社ではさらに別のロバート・パワーズ(Robert Powers)やフレッド・ネルソン(Fred Nelson)といったペンネームでも編曲をしていた。1955年、特に認知度が特に高まっていたアルフレッド・リードに裁判所の手続きを経て正式に改名した。

Google Map:ロングフェロー通りの家 1712 Longfellow Avenue, Bronx, NY.(左上)

右下は旧ジェイムズ・モンロー高等学校。現在は7つの小規模な高校になっている。その前に住んでいたボストン通りは目と鼻の先。

 アルフレッドは1935年から3年連続で、夏の間ニューヨーク市の北東部のキャッツキル山地にあるボルシチ地帯と呼ばれる高級避暑地でバンド演奏のアルバイトをした。そこは内外のミュージシャンやタレントがブロードウェイのステージに立つことを夢見て腕を磨く場所でもあった。

 ジェイムズ・モンロー高校を卒業した1936年の夏も、ピアノにヴァイオリン、アルト・サックス、トランペット、ドラムという5人組で、キャッツキル山地の高級ホテルで週に4ドルをもらいながら働いていた。

 ある日、アルフレッドたちはホテルのオーナーからアイルランドの曲を演奏してほしいと頼まれた。アイルランドから大物政治家がこのホテルに滞在していた。だが、そこはニューヨーク市から150kmも離れた山奥で、すぐに楽譜が入手できるはずもない。メンバーは頭を抱えた。

 その時、いちばん年下でまだ15歳だったアルフレッドがこう言った。

 「大丈夫だよ、みんな。ぼくが何か書いてみるから。」

 名案があったわけではない。ただ、なんとかなりそうな気がした。アルフレッドはちょうど持っていた「Twice 55 Community Songs」というポピュラー歌集からアイルランドの3曲を選び、ハーモニーや伴奏をつけて編曲した。初めての編曲は好評で、大物政治家は感激してチップを10ドルもくれた。この時、アルフレッドはトランペットを吹くことより、曲を書くことの方がおもしろいと気づいた。

 

2. 青年時代(1936年秋〜1942年夏)

ラジオシティ・ミュージックホール

 1936年、山からニューヨークに帰ったアルフレッドは父親に作曲に興味があると話し、父親はジョン・P・サッコー(John P. Sacco)先生を見つけてきた。アルフレッドは週1回サッコーの自宅で音楽理論を習った。サッコーはアルフレッドの父親の顔を立てて指導を始めたが、1年間経った頃にやめた。その1937年、癌で闘病中だった母親がこの世を去り、アルフレッドは孤独に陥った。

 1938年の春、17歳のアルフレッドは作曲家になりたい意志を固めた。ただ、具体的な計画はなかった。家の蓄えは母親の治療費に消えてしまったので、生活費を稼ぐために再びトランペットを手にした。「ローカル802」という演奏家協会の施設で週に3回演奏の仕事をしながら、正式な働き口を探し始めた。

 ある日、仕事が早く終わり、向かいのラジオシティ・ミュージックホールで新作映画『グレート・ワルツ』を観た(予告編)。するとそのエンディングで「ローカル802」の編曲部門長のアルトゥール・ガットマン(Arthur Gutman)の名前が流れた。奇妙な縁を感じ、翌日アルフレッドは「ローカル802」でガットマンに会って作曲家になる夢を話した。するとガットマンは、ハンガリー出身の作曲家ポール・ヤーティン(Paul Yartin)を紹介してくれた。ヤーティンはウィーンやパリの音楽大学で学び、作曲はサン=サーンスの教え子だった。アルフレッドの父親には30分間のレッスンに5ドルという謝礼を払う余裕がなかったが、アルフレッドは奨学生としてヤーティンの助手をしながら学ぶことを許された。週に2〜3回、ヤーティンの家でレッスンスケジュールの調整や課題の添削を手伝いながらヤーティンの指導を受け、他の生徒への指導を見学することもできた。

 ヤーティンの指導は厳しかった。アルフレッドが新しい刺激的な技法に目を奪われることなく、伝統的な和声や旋律を学ぶよう絶えず注意した。読みにくい楽譜を許さず、リードは美しい手書きの楽譜を身につけた。リードはヤーティンの指導に心酔し、彼をまるで父親のように慕っていた。ただ、吹奏楽はヤーティンにとって「オーケストラの二流の代用品」で、アルフレッドが父親とゴールドマンバンドの演奏会に行くことすら許可しなかった。ヤーティンとのレッスンは、1940年にヤーティン夫妻がニューヨークを去って西海岸に移り住むまで、約2年半続いた。

 アルフレッドは1938年以来、ニューヨーク市にある青少年局ラジオ・ワークショップ(National Youth Administration Radio Workshop)にも所属していた。フランクリン・ルーズヴェルト大統領が打ち出した雇用対策事業の一つで、ブロードウェイのエド・サリヴァン・ビルディングに2つのオーケストラとステージバンド等を組織し、音楽家を志す若者は月に22ドルの賃金をもらいながら60時間働き、職業訓練を積む仕組みだった。

 アルフレッドはここで音楽番組制作部に所属し、指揮者のレオポルド・ストコフスキーエドウィン・マッカーサーディーン・ディクソンフリッツ・マーラーモートン・グールド、ジョセフ・ストパーク、ロバート・ハフスタダー、ハロルド・グリックらのアシスタントとしてリハーサルを指揮した。また、週平均2回、ラジオの音楽番組の企画制作を担当し、作・編曲家を務め、リハーサルを監修して番組を制作した。番組のために書いた曲は、《都市物語》《アメリカの約束》《クリエイティヴ・アメリカ》など多数に上る。ワークショップでは音楽界の大物らと共に働くことができ、貴重な経験になった。さらにその後師事する作曲家ヴィットリオ・ジャンニーニと知り合ったのもこのワークショップだった。

 また、この間の1940年の冬、アルフレッドはマージョリー・ベス・ディリー(Marjorie Beth Deley)と初めて出会った。レストラン経営で失敗したアルフレッドの父親が新たに働き始めたレストランに、オーナーの娘で当時離婚したばかりのマージョリーが働いていた。父親はアルフレッドをマージョリーに紹介したことをきっかけに交際が始まり、二人は翌年の1941年6月20日に結婚した。リード20歳、マージョリー21歳の時だった。

 

3. 陸軍航空軍バンド時代(1942年秋〜1946年春)

 1939年に第2次世界大戦が勃発し、1941年12月にアメリカも参戦した。翌1942年9月、アルフレッドは軍に入隊することになった。

 配属されたのはニュージャージー州アトランティックシティ基地だった。基地にはバンドが2つあり、アルフレッドは第29陸軍航空隊バンド(The 29th Army Air Corps Band)に所属した。隊長で指揮者はロバート・L・ランダース准尉(後の空軍合唱隊指揮者のランダース隊長)だった。このバンドは、1943年6月、アトランティックシティ基地の閉鎖に伴い、コロラド州デンヴァーに拠点を移し、第529陸軍航空軍バンド(The 529th Army Air Forces Band)と改称した。マージョリー夫人は1942年に赤十字隊員となり、夫が所属する基地で働き、一緒に住めるようになっていた。

 アルフレッドの任務は、副指揮者兼ラジオ・ディレクター、そして解説者としてさまざまな番組を制作することだった。彼の番組はデンヴァーのラジオ局KOA(NBC系)とKLZ(CBS系)から全米に、また、アトランティックシティー時代はWFPG、デンヴァーではKMYRから地元に放送された。また、戦時広告部のために計73本制作した「アメリカが送るメロディ(America Sends a Melody)」のシリーズは、VOA(Voice of America)を通して海外向けに放送された。アルフレッドは150曲を越えるバンドのためのオリジナル曲と編曲作品を書き、その中にはベートーヴェンの《交響曲第九番「合唱つき」》やヘンデルの《メサイア》の編曲も含まれている。軍隊で音楽を続ける以上、バンドというものを熟知していなければならない。これがリードとバンドとの出会いだった。

 1944年の夏、連合軍の勝利が確実視され、デンヴァー市の有力者たちが市民の協力に感謝する無料コンサートを企画した。音楽監督は作曲家のロイ・ハリス(Roy Harris)で、当時23歳だったリードはアシスタントに選ばれた。12月中旬にデンヴァーとその近郊の5つの軍楽隊の選抜メンバーでバンドを組むことにした。曲目は連合国のロシアとアメリカ双方の未発表曲で、ハリスの《交響曲第六番》の抜粋とハリスがどこかで聴いたプロコフィエフの曲が候補だった。ところが本番3週間前、ハリスが聞いたのはプロコフィエフの《行進曲 作品99》で、第529陸軍航空軍バンドもすでに取り上げていることが分かった。困ったハリスは電話でリードに「演奏会のためにロシア風の曲を書いてくれ。頼むぞ」と伝えた。リードは耳を疑い、電話をかけ直した。すると、

  (ハリス)「心配ないさ。キミを信じている。」

  (リード)「ロイ、コンサートまであと15〜6日だけど…?」

  (ハリス)「そうだな、あまり長くならないよう、14〜5分ほどでいいぞ。」

 ランダース隊長の配慮でリードはその間作曲に専念できることになり、さっそく市内のロシア系教会からコラール集を借りるなどして作曲に取りかかった。書き上がったスコアのページを妻が毎日基地に届け、5人の写譜屋が連日働いて11日間で曲は完成した。その《ロシアのクリスマス音楽》は12月12日にNBC系列のラジオで全米に放送され、演奏会は12月14日にデンヴァー市公会堂で行われた。リードにとってはこれがデビュー作となった。

 

4. ジュリアード音楽院時代(1946年秋〜1948年夏)

 1946年2月に除隊したリード夫妻はニューヨークに戻り、西95丁目151番地のアパートに居を定めた。2人はようやく普通の生活に戻った。

 さかのぼること1940年、ヤーティンがニューヨークを去った後、リードはしばらく作曲の先生がいない状態に置かれた。その頃、ラジオ・ワークショップで憧れの作曲家ヴィットリオ・ジャンニーニが働いているのを知り、彼に師事したいと頼んだ。だが、リードに兵役が待っていたことから、ジャンニーニは終戦後に自分がどこで教えていようとリードを生徒にすることを約束した。ジャンニーニは、その後名門のジュリアード音楽院で教鞭をとっていた。

 世界の音楽家のメッカとして名高いジュリアード音楽院。その前身である音楽芸術専門学校が1905年に創立され、これとは別に織物商人オーガスタス・D・ジュリアードの遺産で1924年にジュリアード大学院が設立されていた。1946年、この2つの機関が合併し、ジュリアード音楽院として生まれ変わった。また、ヨーロッパから亡命した音楽家やアジアからの学生も加わり、ジュリアードのキャンパスが華やかさを増していた(その後、舞踊学部と演劇学部が加わりジュリアード学校と改称された)。

 リードがニューヨークに帰った時、春学期は始まっていたので、少し待って秋からの入学に向けて受験した。楽器か歌唱の実技試験が必須で、リードは久しぶりに手にしたトランペットで課題曲からリヒャルト・シュトラウスの《英雄の生涯》とベートーヴェンの《レオノーレ第二番》の抜粋を吹いた。

 試験終了後、3人の試験官を代表してウィリアム・ヴァッキアーノが静かに語りかけた。

 「ジャンニーニ君のところで作曲を専攻するそうだね。なら、合格だ。」

 リードは25歳でジュリアード音楽院に入学し、マージョリーもジュリアードの教務課で働きながら夫を支えた。リードはジャンニーニのもとで室内楽や管弦楽のスコアリングを中心に学んだ。ジャンニーニは今後もイタリア的な旋律とドイツ的な管弦楽法が続いていくとリードに何度も語った。この考え方がリードの書法に計り知れない影響を与えた。

 ジュリアードでドナルド・I・ムーア(Donald I. Moore)に会えたのも収穫だった。1947〜48年、ジュリアードは帰還兵を中心に学生があふれ、その分だけ学生の演奏機会が減っていた。ウィリアム・シューマン(William Schuman)学長は学生たちの受け皿としてウィンドバンドを結成し、ムーアはその指揮者に迎えられていた(このウィンドバンドは音楽院の方針変更によりわずか1年で解散した)。

 1947年、コロンビア大学で吹奏楽のための新曲コンテストがあり、リードは《ロシアのクリスマス音楽》を手直しして応募した。《ロシアのクリスマス音楽》の改訂版は受賞作品3点の中に選ばれ、ハーウッド・シモンズ(Harwood Simmons)が指揮するコロンビア大学バンドが初演し、1948年2月にはムーアの指揮でジュリアード・バンドも演奏した。リードはブージー&ホークス出版社と交渉したが、スクールバンドには長くて難しすぎるという理由で出版を断られた。だが、コロンビア大学のシモンズが初演後にアメリカの主要な吹奏楽指導者にこの曲を推薦する手紙を送り、リードの元には称賛と演奏許可を求める手紙が多数届いた。そのうちイサカ大学バンドの指揮者ワルター・ビーラー(Walter Beeler)も演奏の機会を得た。彼は曲に魅了され出版を勧めたが、ブージーの一件で傷ついたリードは消極的だった。

 リードはピアノと指揮法の授業も受け、1948年にジュリアードのオーケストラを指揮する機会も得た。できるだけライブ演奏やリハーサルを聴き、スコアを追い、どうするとそのサウンドが得られるかを考えた。リードのオーケストレーションの基盤がこの時に作られたという。

 1948年の春、NBCの人気番組「The Eternal Light(永久の光)」などを担当する売れっ子作曲家モリス・マモースキー(Morris Mamorsky)が助手を募集し、採用されたリードはジュリアードに在籍しながらラジオ番組のために次々に曲を書いた。リードは多忙になると共に作曲家になる夢もかなったので、これ以上ジュリアードで勉強する必要がないように感じた。ジャンニーニに相談すると「キミの才能と経験を考えると、これは重要なステップかもしれない」と理解を示した。だが、音楽院のノーマン・ロイド(Norman Lloyd)学長には分かってもらえないまま、ジュリアードを退学した。

 

5. 放送業界時代(1948年秋〜1953年夏)

 1948年9月、リードはマモースキーとNBCのラジオ番組「Marriage in Distress(苦悩の結婚)」の制作を始めた。リードが曲を書き、マモースキーがNBC交響楽団を指揮して録音した。番組はさらに「The Ethel Merman Show(エセル・マーマン・ショー)」「Mike Barrows, Government Agent(政府職員マイク・バローズ)」「The U. S. Steel Hour(U.S.スチール・アワー)」「The Henry Morgan Show(ヘンリー・モーガン・ショー)」にも広がった。リードがこれらの番組のために書いた曲の多くは、契約によりマモースキーの名前で使われた。初めは納得していたリードも時間が経つと満足できなくなり、その後フリーの作編曲家としてNBCの番組に曲を提供した。

 1949年の春、リード夫妻は西87丁目43番地のアパートに転居している。この頃にはABCでも同様に働くようになり、そこで初めてテレビ番組の音楽も制作した。また、ヘンリー・モーガンの強い希望で、NBCテレビの「ヘンリー・モーガン・ショー」も担当した。

 1948〜50年、リードはオリジナルの映画音楽を6本制作した。「Answer for Anne(アンネへの返事)」「Stepping Along with TV」「Our Silent Partner(静かなるパートナー)」「With These Hands(この手で)」「The Inner Man Steps Out(内なる男)」「Wings Over France(フランスを越える翼)」担当した。また、ジローム・ロビンス演出の「Popular Dance」と「History of Women's Bathing Suits」の2つのバレエ音楽も手掛けた。ミュージカル・コメディ「All About Love」やコメディ「Laugh It Off」などの舞台音楽を担当している。

 レコード業界にも参入し、代表作にはRCAビクターから1950年12月発売のアルバム「スウォーザウトが歌う愛唱歌集(Gladys Swarthout Sings My Favorites)」や、1951年5月発売のリーゼ・スティーヴンスが歌う「わが母の教え給いし歌(Songs My Mother Taught Me)」がある。


 こうした音楽業界での華やかな活躍とは裏腹に、プライベートでは苦しみもあった。夫妻は1951年からロングアイランドのワンタフ地区ドックレーン39番 地の一戸建ての家に住んでいた。結婚して10年余り、マージョリーは遺伝上の体質と思われる流産を繰り返し、不妊治療を行っていた。1952年2月に初め ての男児を授かったが、その3ヶ月後に先天性の心臓疾患でこの世を去った。夫妻は悲しみのどん底に突き落とされ、この悲しみとどう向き合えばいいのか懸命 にもがいていた。

Google Map:ロングアイランドの初めての一戸建て。 39 Dock Lane, Wantagh, NY.

 

6. ベイラー大学時代(1953年秋〜1955年夏)

 運命の女神はリード夫妻に微笑んだ。

 チャールズ・H・ハンセン出版社で1949年から編集と編曲を担当していたワルター・ビーラーは、イサカ大学バンドの指導との両立することが困難になり、1953年1月、ハンセン出版社を退職することにし、後任にリードを推薦した。リードはABCに勤務しながらハンセン出版社の編集・編曲に携わることで話がすすんだ。あわせてビーラーはリードに《ロシアのクリスマス音楽》を短く簡単に改訂するよう勧め、この年《スラヴ民謡組曲》の題名でハンセンから出版された。リードにとって吹奏楽の最初の出版作品となった。

 一方、同じく1953年の春、リードのプライベートな事情を心配する指揮者のドナルド・ムーアが、テキサス州のベイラー大学交響楽団の指揮者のポストをリードに勧め、リードは気持ちを切り替えるために勧めに従うことにした。これを知ったチャールズ・ハンセン社長が慌ててリードを訪れ、リードには会社の編集・編曲者の身分のままベイラー大学に赴き、そこでスクールバンドの現状について見聞を広め、それを会社に還元すればいいと説得した。リードは新たな人生に踏み出すと共に、ハンセン社から収入も得ることになった。

 リード夫妻はロングアイランドの自宅はそのままに、テキサス州ウェイコー市ジェイムズ街820番地のアパートに転居した。ベイラー大学は、1845年にテキサス洗礼派教育協会が創立した私立大学で、その名は洗礼派の指導者ロバート・E・ベイラーにちなんでつけられた。本部構内には音楽学部の他、教養学部や商学部、教育学部、法学部、看護学部、そして大学院等があり、学生数はリードが籍を置いた当時、6,500人ほどいた。

 ベイラー大学での職務は週に2回ほどオーケストラを指導することだったが、学長からの願いでリードは音楽の授業の一部も担当した。ただ、音楽の基礎も知らない教養学部の学生への講義等では戸惑うこともあった。大学はリードのジュリアードでの履修内容を考慮し、リードが全員必修の1科目(キリスト教学)を受講し終わると学士号を授与した。

 リードはウェイコー市にあるWORDレコード社の音楽ディレクターにも迎えられ、レコード業界での経験を生かして敏腕を振るった。また、ハンセン社との約束でスクールバンドやその指導者と交流しながら彼らのニーズを学び、多くのポピュラー曲を編曲した。何より大きな出来事は、1954年9月、ウェイコーの音楽家協会の代表が児童福祉課の職員だったことから、その紹介で生後5ヶ月のリチャード・ジャドソン・リードを養子に迎えたことだった。こうしてリード夫妻に笑顔が戻った。

 ベイラー大学では修士号も目指した。論文に相当する提出作品として《ヴィオラと管弦楽のためのラプソディ》を書き始めた。バルトークの曲に強い影響を受けた作品だが、ベイラー在籍中には完成せず、その後に持ち越された。

Google Map:ベイラー大学(上)とリード夫妻の住まい。 820 James Avenue, Waco, TX.

820番地が見当たらず、下のマーカーは822番地。当時の家はもう現存しない模様。

 

7. ハンセン出版社時代(1955年秋〜1966年春)

《ラプソディ》の表紙
《ラプソディ》の表紙

 1955年の夏、リードはニューヨーク市ロングアイランドの自宅に戻り、ハンセン出版社で編集・編曲に専念することになった。リードは吹奏楽のためのオリジナル曲19曲をはじめ、クラシック、ミュージカル、映画音楽の編曲、さらに合唱やマーチングなどの多数の作品を書いた。ハンセン社の従業員は肩書きをもたずにお互いをファーストネームで呼び合っていたが、リードは職務の内容を社外向けに説明するために、器楽・合唱曲出版部の編集主幹(Executive Editor)と言っていた。

 また、リードはニューヨークで完成させた《ヴィオラと管弦楽のためのラプソディ》を1956年にベイラー大学に提出し、修士号を受けた。1959年にルリア銅鉄社のルリア・コンテストに応募したところ、150点以上の作品の中からルリア賞を受賞した。ハンセン社はリードがオリジナル曲を作品にふさわしい他社から出版することも認めており、この本格的な作品は1966年にブージー&ホークス出版社から出版された。

 1957年の春、リード夫妻は生後4ヶ月のマイケル・カールソン・リードを2人めの養子に迎えた。その頃、リードはオクラホマ州イーニドで毎年開かれる三州合同音楽祭のオープニング曲として、《音楽祭のプレリュード》を書き上げた。この曲は1957年5月の音楽祭で初演され、5年後の1962年にE. B. マークス社から出版された。楽譜は飛ぶように売れ、出版社の求めで管弦楽版も1968年に出版された。また、1970年には全日本吹奏楽コンクール課題曲として日本版も出版され、リードの名前と作品は日本中に広がった。

Google Map:1950年代のハンセン出版社 119 West 57th Street, NY.

スタインウェイ・ビルディングと同じブロック。カーネギーホールと同じ通り。

 ハンセン出版社はこの頃アメリカを代表する出版社に成長し、一方でニューヨークの建物は手狭になりつつあった。会社はフロリダ州マイアミビーチ市に移転を決めた。移転は4年かけて徐々に行われ、リードの部門は1960年に移転した。それに伴い、リード一家も近隣のノースウェストマイアミ市北西192テラス2215番地に転居した。

 リードはマイアミでも精力的に編集と編曲の仕事を続けた。ただ、1965年(44歳)頃から再び自分の生き方を考えるようになった。ジャンニーニについて学んだのは、スケールの大きな作品を書くことが目的だったはずだ。ハンセン社の仕事はやり甲斐があったが、リードは少しずつ退社を考え始めた。

 そんな頃、リードはマイアミ大学の学長で作曲家のウィリアム・リー(William F. Lee III, 1929-2011)が著した『音楽理論辞典』の編集を担当するうちに、リーからマイアミ大学で音楽産業学を教えてみないかと誘われた。1965年の秋学期、リードはハンセン社に籍を置いたまま、マイアミ大学で週1回の授業をするようになった。

Google Map:オパロッカの家(上) 2115 Nortwest 192nd Terrace, Opa-Locka, FL.

新しいハンセン出版社(下)1870 West Avenue, Miami Beach, FL.

ハンセン出版社はおおよその位置。建物は現存しない可能性。

 

8. マイアミ大学時代(1966年夏〜)

リードの音楽産業の授業風景。1989年3月、村上撮影
リードの音楽産業の授業風景。1989年3月、村上撮影

 運命の事件が起こった。

 1966年のリード45歳の誕生日(1月25日)、マイアミ大学音楽学部の教官でリードとも親交があったフレデリック・アッシュが自ら命を絶った。リー学長はリードに電話で事件を知らせると共に、リードに援助を求めた。リードは1966年の春学期、自分の音楽産業学の授業に加えてアッシュの代わりに音楽理論の授業も担当し、週に1日はフルタイムでマイアミ大学に勤めるようになった。そしてまもなくリー学長から音楽産業課程の発展のためにマイアミ大学で働いてみないかと誘われた。

 1966年の春、リードはハンセン出版社と協議して退職した。そして秋学期からマイアミ大学に常勤の準教授として勤めることになった。

 マイアミ大学は1926年創立の私立大学で、教養学部、教育学部、工学部、音楽学部、看護学部、法学部、薬学部を置く総合大学(学部名は当時)。リードは音楽学部の中で理論作曲学科と音楽教育学科(音楽産業課程を含む)を兼任し、マイアミ大学音楽出版局(UMMP)の編集主幹の座にも就いた。当時のアメリカには音楽産業課程をもつ大学や専門学校があったが、リー学長の強力な組織改編により、学位を授与できるのはマイアミ大学だけだった。リードには授業内容を自由に編成する権利が与えられ、刻々変化する音楽産業界のニーズに対応できる学生を育成するため、研究と工夫を重ねた。音楽産業課程の実際の授業は、著作権やレコーディング、楽譜・楽器の生産から流通、販売などを実際的に、そしてタイムリーに扱っていた。リードは自分の作曲技法を次の世代に伝えたい思いもあったが、非常に多忙で叶わず、優秀な大学院生が見てほしいともってくる作曲作品についてのみ、職務と関係なく目を通し、コメントを返した。

 リードはスクールバンドにも関心を持ち続けた。ハンセンを去った1966年の夏には、全米から高校生を選抜したアメリカ・スクールバンドの副指揮者としてヨーロッパ演奏旅行を行った。これは翌年にも行った。1967年にはリー学長が組織した全米青少年選抜バンドの指揮者として、フレデリック・フェネルとクリフトン・ウィリアムズと共に南米演奏旅行を行った。ヴェネズエラとドミニカなどで合計14公演を行った結果、翌年、ペルーの首都リマにあるペルー国立音楽院から他の2人の指導者やリー学長と共に名誉博士号を授与された。

 1968年、リードはマイアミ大学の教授に昇格した。この年、リードはマイアミ大学西門のすぐそばにある、コーラルゲーブル市アンコナ通り1405番地の一戸建てに引っ越した。ハリケーンに備えて平屋造りになっているスペイン風の家は、周囲の美観にもよく融け込んでいる。玄関は南側を向いており、道路までの前庭は芝生がよく手入れされ、南国の鮮やかな花が植えられている。1966年にマイアミ大学に奉職してから作曲の時間が増えていたが、この転居によって通勤時間が格段に短縮され、作曲の時間をさらに確保することができた。作曲家リードの独特の様式はこの頃に最高潮を迎え、質の高い作品が次々に生み出された。

 1968年、《ロシアのクリスマス音楽》が作曲から24年後、サム・フォックス社から出版された。C. L. バーンハウス社からも誘いがあり、《ジュビラント序曲》やバッハの吹奏楽編曲シリーズを提供した。

 リードは中学時代から文学に関心が高く、1970年代後半、マイアミ大学リング劇場のデルマー・E・ソーレム(Delmar E. Solem)からの求めに応じ、シェイクスピアの『オセロ』と『あらし』のための舞台音楽を制作した。終演後、イサカ大学のワルター・ビーラーの追悼委嘱作品として『オセロ』の吹奏楽版を作ることになり、リードにとっては感慨深かった。《オセロ》の吹奏楽版は1977年10月12日に、リードが指揮するイサカ大学シンフォニック・ウィンド・アンサンブルによって初演された。『あらし』については組曲化せず、音楽素材を単一楽章の《魔法の島》に凝縮した。 

初のリード作品集(LPレコード)
初のリード作品集(LPレコード)

 1978年、アメリカのゴールデン・クレスト・レコード社は、リードの吹奏楽曲を集めたLPレコードを発売した。《第二交響曲》の初演録音も含まれていた。

  1980年8月15日、リードは定年退官するフレデリック・フェネルの後任として、マイアミ大学ウィンドアンサンブルの指揮者に指名された。これによって リードは大学から理論作曲学科の指導を免除され、代わりにウィンドアンサンブルを指揮する学生に対して指導する立場になった。これは1987年まで続い た。

 リードはマイアミ大学に1993年5月まで在職するが、1981年以降の活動の重点が日本に移っていくため、ここで章を改めることにする。

9. 日本での活動から晩年へ(1981年春〜)

 1960年(昭和35年)頃から日本各地の中学・高校に吹奏楽部が創部されたが、ひと握りの恵まれたバンドを除けば、多くの学校のレパートリーは 素朴なマーチや当時の流行曲が主流だった。そんな中、1963年にイーストマン音楽学校に留学した秋山紀夫氏の尽力で、1965年に全日本吹奏楽コンクー ルの大学・一般の部の課題曲に《シンフォニック・プレリュード》が選ばれ、引き続き1970年に《音楽祭のプレリュード》が高校以上の課題曲に選ばれたことで、リードの名前が日本に広まった。

 これに東亜音楽社が発行する日本版の楽譜が拍車をかけた。1971年の《サスカッチアンの山》、 73年の《インペラトリクス》、1974年の《イントラーダ・ドラマチカ》など、ハンセン社の方針でアメリカの学校現場のために書いた作品が吹奏楽コンクール等を通じて熱烈に歓迎され、スクールバンドの標準的なレパートリーとして浸透した。

 より高度な曲を求める声に対しても、リードが1970年代に 書いた作品群は十分に応えることができた。吹奏楽コンクールの自由曲として瑞穂青少年吹奏楽団が1976年に取り上げた《ジュビラント序曲》や78年の 《パンチネロ》は、SONYの実況レコードやNHK-FMの「ブラスの響き」を通じて全国に広まった。1979年のコンクールでは全国大会で6団体が《アルメニアン・ダンス(パート2)》を自由曲に取り上げ、この年の天理高等学校の《"ハムレット”への音楽》や81年の《オセロ》も記憶に残る名演だった。アメリカからの輸入楽譜も手に入りやすくなってきていた。

初来日コンサートのちらし
初来日コンサートのちらし

 そうした機運の中、1981年3月20日、リードは東京佼成ウインドオーケストラの招きで夫人と共に初来日した。 3月25〜26日に普門館で、自作曲を中心とする録音を行った。人気の《音楽祭のプレリュード》《アルメニアン・ダンス(パート1)》に加え、《ロシアのクリスマス音楽》《バラード》の初録音も含めた2枚組LPはファン垂涎の品となった。

 3月28日、リードは東京佼成ウインドオーケストラ第28回定期演奏会(新宿文化センター)の客演指揮者としてファンの前に現れた。会場は立ち見席まで満員となり、当日券を期待した300人近くが会場に入れなかった。リードは聴衆の熱狂的な拍手に迎えられた。日本の吹奏楽史上、特筆すべき「事件」の1つだった。

 翌82年には再来日が実現し、11月の東京佼成ウインドオーケストラの大月特別演奏会(12日、山梨県大月市民会館)と第31回定期演奏会(14日、普門館)でリードは再びファンの前に立った。特に普門館は約5,000人収容のホールの通路や花道にまで座り込む観客であふれかえった。この時、立正佼成会の庭野日敬会長(当時)の喜寿を祝うために作曲された《法華経からの三つの啓示》の終楽章が、リードの指揮で世界初演された。

 1985年以降、リードは客演指揮やクリニックの指導者として毎年日本を訪れ、特に1987年以降は(株)APIの企画により、アマチュアの団体も勢力に指揮し、各地で多くの感動を巻き起こした。

 1988年、リードは洗足学園大学の客員教授とジャパン・スーパー・バンドの音楽監督に就任し、日本での活動への足がかりを作った。

 1989年5月にはAPI主催による「A・リード音の輪コンサート」の第1回が催された。これはリードと共に音楽を作りたい演奏家が集まって編成する「音の輪ウインドシンフォニカ」の発表の場である。リードは2005年の第17回まで指揮した。

 1991年6月20日、APIの主催で「リード夫妻の金婚を祝う会」が都内のホテルで開かれた。この時、画家の本多豊國氏によるリード夫妻を描いた油絵が夫妻に贈られた。

 1993年5月末、リードは27年間勤めたマイアミ大学を退官した。これを機にリードの活動の比重は、日本やアジア、そしてヨーロッパに移っていった。同じ93年、鴨井次郎氏を理事長とする「A・リード国際協会」が発足した。この協会の主催で、94年8月28〜29日に東京で「A・リード音楽祭」の第1回が開催された。ジャパン・スーパー・バンドのコンサートやソロ・コンテスト、クリニックなど充実した内容だった。

 1994年5月、リード夫妻は洗足学園大学横浜キャンパス内に住まいが用意され、落ち着いた生活ができるようになった。6月、リードは日本吹奏楽指導者協会で初めて7月1日には佼成出版社からリード作品の録音を集大成した「A・リード作品集」と題する4枚組のCDアルバムが発売された。解説書には吉岡康博氏の充実した「アルフレッド・リード小史」が含まれている。同年12月、リードは《第五交響曲》を完成させた。洗足学園の創立70周年を記念する委嘱作品で、1995年7月26日、アクトシティ浜松で開催の第7回世界吹奏楽大会(WASBE)で自らの指揮により初演された。この頃から、日本の団体からの委嘱によって作曲された曲が現れている。

 21世紀を迎えた2001年1月25日に御年80歳を迎え、その後も元気で精力的に日本で活動を続けた。2004年には第14回日本管打・吹奏楽アカデミー賞特別賞を受賞した。

 2005年3月、洗足学園音楽大学客員教授を退いた。この年、財団法人日本音楽教育文化振興会名誉会長に就任した。この年の8月21日、東京・パルテノン多摩における「ミュージック・キャンプ in 多摩」の最終日のコンサートで指揮をしたのが最後の舞台となった。帰国後体調を崩し、フロリダ州コーラルゲイブルズのドクターズ病院で、2005年9月17日午後4時(日本時間18日午前6時)に息を引き取った。享年84歳。マージョリー夫人も2007年11月17日にこの世を去った。

 

10. 没後の動向

 2006年5月4日、すみだトリフォニーにおいて第18回音の輪コンサートが「A.リード追悼演奏会」と銘打って行われた。この年、佼成出版社音楽出版室がリードに対する追悼の意を込めて、5枚組のCD「リード作品集+(PLUS)」を発売した。1981年の初来日以来の録音を集大成した形となった。
 同年8月6日、NHK交響楽団が「N響ほっとコンサート」の第1部で吹奏楽編成を組み、山下一史の指揮で《アルメニアン・ダンス(パート1)》を演奏した。その模様は9月3日にNHKテレビ「N響アワー」で放映された。日本の吹奏楽史に残るまた1つの「事件」だったといえる。この頃からプロのオーケストラが吹奏楽に接近する動きが始まった。

 没後、リードの吹奏楽曲を管弦楽に編曲して演奏する試みが、クラーク・マカリスターや中原達彦によって進められている。また、リードの吹奏楽曲を簡略化した編曲や金管合奏への編曲も活発化している。

 2015年にリードの没後10年を迎え、リードの作品をあらためて見なおそうという機運の高まりも感じられる。

 

【参考文献】

 Douglas M. Jordan: Alfred Reed, A Bio-bibliography, Greenwood Press, 1999.
 Herbert Marinkovits: Alfred Reed, Leben und Werk, unpublished dissertation, 2014.

ニュース・近況

 

12月10日 コバケンとその仲間たちオーケストラ 史上最高の第九に挑むVol.4に出演予定です(東京)

 

6月25日 コバケンとその仲間たちオーケストラ第86回演奏会に出演予定です(東京)

 

6月23日 10年に及ぶ準備を経て、このたび『アルフレッド・リードの世界 改訂版』が刊行されました。どうぞよろしくお願いいたします。

 

4月23日 真島俊夫メモリアルコンサート"natal"2023(山形県鶴岡市)に出演しました。

 

4月15日 全音スコア、ブラームス《ヴァイオリン協奏曲》が発売されました。楽譜制作担当です。

 

2023年

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1月25日 アルフレッド・リードが生誕101年を迎えました。

 

1月15日 全音スコア、リムスキー=コルサコフ《スペイン奇想曲》、全音ピアノライブラリー『マスネ:ピアノ小品集』が発売されました。楽譜制作担当です。

 

1月8日 『バンドジャーナル』2022年2月号の「コンサートレビュー」にオオサカ・シオン・ウインド・オーケストラ第139回定期演奏会の報告を書きました。

 

2022年 明けましておめでとうございます。平和な日常が戻ることを祈るばかりです。

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12月15日 全音スコア、ドリーブ《組曲 シルヴィア》が出版されました。楽譜制作担当です。

 

11月15日 全音スコア、ムソルグスキー/リムスキー=コルサコフ編《はげ山の一夜》が出版されました。楽譜制作担当です。

 

8月8日 『バンドジャーナル』9月号が発売されました。「バンドミュージックレパートリー」を担当。アルフレッド・リードの名曲を取り上げました。

 

8月5日 タワーレコード/ブレーン株式会社製作のCDアルバム『「エルサレム讃歌」—アルフレッド・リード讃!』が発売されました。当面タワーレコード限定販売です。

 

6月15日 全音スコア、ドリーブ『バレエ音楽 コッペリア』(15曲抜粋)が出版されました。楽譜制作担当です。手書きの底本と作曲者の自筆譜を見比べながらの困難な作業でした。世界的にも珍しい出版です。

 

5月2日 A. リード音の輪コンサートに出演しました。多数のご来場、誠にありがとうございました。

 

4月15日 全音からサン=サーンスの『ヴァイオリンのための小品集』が発売されました。楽譜制作担当です。「従来出版がなかった幻の楽譜も収めています。」

 

4月9日 『バンドジャーナル』5月号の「特集 生誕100年!! アルフレッド・リードの世界」にさまざま掲載していただきました。

 

3月15日 全音スコア、シューベルト『交響曲第9(7)番 グレート』が発売されました。楽譜制作担当です。

 

3月6日 『父・バルトーク』が好評につき重版となりました。おおむね初版通りですが、微細な修正と補記が入っています。今年はバルトーク生誕140周年ということもあり、引き続きご愛顧をよろしくお願いいたします。

 

1月27日 朝日新聞山形版&デジタルにご紹介いただけました。

 

1月15日 全音スコア、ベートーヴェン『ピアノ協奏曲第3番』が発売されました。楽譜制作担当です。

 

2021年 新型コロナが収束しませんが、リード生誕100周年が始まりました。

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